なんとなくのブログ

日常 思うこと

機嫌の取り方

世の中のクレーマー各位

 

小学生は相手の夢をすぐに奪う。

週末に買った新しい服を着ていって紹介しようものなら「あんまり色合ってなくない?」と言ってみたりする。

自分よりドッジボールがうまい子がいたら、その子に向かって「お兄ちゃんの方が速いボール投げられるし」と言ってみたりする。

自分の好きなアーティストが友達と合致しないと、「お父さんが○○はあんまり歌上手くないって言ってたけどね」と言ってみたりする。

 

相手のことを、相手の好きな物の格を落とすことで、自分の信じるもの、自分の居場所を守る。

 

そんな子を見つけると「かっこわるい!ダサっ!ガキか!」と思う。実際に声に出して言ってやりたい。

 

大人にもこういう残念な人がいる。

自分の居場所を自力では見つけられず、相手の格を落したり、相手が今いる場所から無理やりどかしたりすることで、なんとか自分の地位を保とうとしている。

 

自分よりも優れたものを持つ人、自分と違うものを信じる人に「このくそが!」と思うのは勝手だが、それを口にしてはいけないと思う。

大人なら自分の機嫌は自分で取りたい。相手をいいように使ってはいけない。

 

あなたはどうやって自分の機嫌を取っていますか。

 

 

歯磨き粉

歯磨き粉。使っているところを見つかると子どもたちが騒ぐ。

 

子どもたちは持ってきてはいけない決まりになっているようである。

明文化されていないが、代々教師にそういわれているらしい。

そういわれているから私もやんわりと持ってこないように伝えているが、どうしてダメなのか分からない。

私のはブドウ味だとか、私のはめっちゃ泡立つだとか言って、歯磨き粉の試食会が始まるのだろうか。

 

こういう、理由は分からないが禁止されているルールは学校に多い。理由が納得のいくものなら堂々とダメと言えるが、そうでない場合はこちらもダメと言いづらい。一部の謎ルールは、教師をやっていると、あ、確かに必要だなと思うものがある。しかし歯磨き粉ルールはいまだに答えが見つからない。

 

歯磨き粉。子どもたちが歯磨きを喜んでするならば持ってきたらいい。虫歯になるよりいいだろうに。

 

 

教室以上の戦場

学童の職員が足りていないという記事を見た。

原因は給料が低いことや労働時間が長いこと、仕事内容過酷さであるようだ。

 

まず給与に関しては、時給制だったり月給制だったりするようだが、学童だけの給与では食べていけない。保育士のように、仕事内容に対して給与が低すぎる。

 

そして、ただでさえ人がいないのに、子どもたちが多様化しているために指導に手がかかり、時間外労働も多いという。学童に子を預ける家庭の中には、仕事などで忙しく、子に十分な教育(しつけ)ができていない家庭もある。職員がいちいち注意して見たり指導したりする必要がある手のかかる子が、狭い空間にたくさんいる。学童の職員はそんな環境で人手不足の中働いている。極めつけは、その子たちが学年や年齢もバラバラということだ。小学生は学年によって全く実態が違う。こんな状況で一人ひとりの安全に気を配って見ていられるだろうか。教室は戦場であるが学童も大概である。

 

勤務時間もネックかもしれない。例えば午後1時から午後7時までというところがあるようだが、職員に子どもがいる場合、子育てでおそらく最も忙しい時間に働かなくてはならない。

 

保育士の給与が低かったり、教職員の数が足りていなかったりと、教育にもっとお金をかけることはできないのだろうか。

日本の教育界はどんどん曇っていくばかりでなかなか光が差し込んでこない。

呼び覚ませ 5・7・5の リズム感

 

5・7・5 俳句や川柳の文字数

5・7・5・7・7 短歌の字数

 

これらのリズムは日本人にとってとても良いリズムで、広告のキャッチフレーズなどにもよく登場する。例えば…

・目のつけどころがシャープでしょ(SHARP

・NO MUSIC, NO LIFE(タワーレコード

セブンイレブン・いい気分(セブンイレブン

・会いに行こう。思うよりも、待つよりも。(東京メトロ

など。

考案者が俳句や短歌を意識したかは分からないが、このリズム感というか語呂の良さというかは意識しているはずだ。その結果、偶然か必然か、俳句や短歌のリズムになっている。

 

小学校の国語の教科書にも俳句や短歌は載っている。しかし、指導書(教師用の教科書)によると、そこに割くべき時間数はせいぜい2時間である。本当はもっと時間をかけて色々な詩を楽しんでほしいし、自分たちで作ることもやってほしい。でも、そんなに時間を使うことはできない。(他に指導すべきことが山積みである。)

 

俳句や短歌の授業では、(指導書にもある通り)とにかく声に出して読むことが大切である。このリズムに親しむことに意味がある。その親しんだリズムは、大人になってからもふとした時に、予想もしない場面で助けてくれるはずだ。

 

俳人歌人になる必要はない。しかしとにかく読め。声に出して。

と子どもたちに言いたい。というか、言う。

 

モンペさんに言うごめんなさいは、星座占い12位のときのそれ

「ごめんなさい、12位はてんびん座のあなたです」

朝のニュース番組の星座占いのコーナーでアナウンサーが言う「ごめんなさい」ほど安売りされていて気持ちのこもっていないごめんなさいも、なかなかない。

 

 

恐らくどの朝の番組でもやっている星座占いや誕生付き占い。いつも1位や最下位の時だけ偶然そのコーナーを見ているのはなぜだろうか。

分かっている。順位に関係なく、その番組とそのコーナーは毎朝居間に流れているのだが、そういう極端な結果の時だけ目に耳に入って覚えているから、そう思えるのだろう。

自分がその日最下位の運勢だなんて私は知りたくないのに、1位と同じようにピックアップされ、ご丁寧に同情の言葉とラッキーアイテムの情報が添えられて紹介される。ラッキーアイテムはだし醤油なのね、知れてよかった感謝感謝。とは、ならない。最下位と知っていればそのチャンネルなんてつけておかないのに。

 

最下位の紹介のとき、アナウンサーが「ごめんなさい」と言っているが、いったいどこまでごめんなさいと同情してくれているのだろうか。

最下位の男には「いいよいいよ!OK、OK」と言える余裕はない。(ちなみに自分以外の人間が最下位だと、アナウンサーさん、そんな毎回ごめんなさい言わなくていいよ、と余裕がある。)

 

そこで意見がある。毎回最下位を発表せずにコーナーを終わりにしてはどうだろうか。例えば誕生月占いなら、11この月が紹介された時点で最下位は明白である。なので11こ目を終えた時点で、「最下位は……あの月です。みなさん今日も一日がんばりましょう」で終わればいい。そうすればアナウンサーの人がごめんなさいを言っても心にゆとりのない朝の社畜たちが怒ることはない。最下位であろう人は、自分が最下位であることを認めずに1日を始めることができる。(知らんけど)

 

気持ちのこもっていない適当なごめんなさいは、理不尽なクレームを入れてくる保護者相手にだけ使いたい。

 

 

いや、やっぱり最下位でも知らせてくれないと消化不良で気持ち悪いか。