なんとなくのブログ

日常 思うこと

不登校はいけないのか

学校とは本当に狭い世界だなと思う。コミュニティーが狭い。

仲間外れにされたりでもすれば他に属するコミュニティーもない(と思っている)ので死活問題である。

 

大人になってみると子どもの頃の悩みなんてちっぽけに思える。

しかし子どもにとっては大問題なのである。

 

死にたい思いをしてまで学校に来なくていいよと、本当は言ってあげたい。

 

―――不登校者数が過去最大になったそうですね。

「スイミー」はアスリートであった

 

小学校で国語を教えていると、国語の教科書に載るような名作には無駄な一文など全くないことに気付く。

 

教師には指導書―教師用の教科書や授業づくりのヒントになる教科書の教科書のようなもの—というものが渡される。そこには子どもたち用の教科書と全く同じ内容が書かれている。

子どもたちの教科書と違う点といえば、それぞれの文章の横に何を指導すべきか書いてあることだ。主人公の心情を理解するうえでその一文がどんなヒントになっているかということや、文章の構成上その単語がどんな役割を果たしているのかが書いてある。

 

指導書を読んでいると重要な文章は山ほどあって、無駄な文章や不必要な文章は全くないと言ってもいい。すべてが物語のカギになっているしそれらを理解することでより一層物語を楽しむことができる。

そしてなぜその物語が小学校の教科書に載っているのか理解できる。あまりにも完璧な文章だからだ。まさに芸術である。

 

贅肉の全くない、鍛えられ上げたアスリートの体のような文章で作られた話、それが「スイミー」や「ごんぎつね」のような名作である。

ドリンクバー頼むの?キミ、ガイコクジンネ。

「異文化」とは何も日本人にとっての欧米の文化のような異国の文化に限らない。

日本国内であっても、いやいや、もっともっと狭く夫婦の間にも異文化は存在する

 

例えば聞いた話によると、家族でファミレスに行くと必ずドリンクバーを頼む文化が存在するらしい。ケチな私からすると、毎回ドリンクバーを頼むなんてのはもったいないとおもってしまう。2,3時間も居座るわけではないだろうし、家族相手に今更腰を据えて話すこともない。

 

それから、これも飲食店の話だが、食べ物を平気で残したりテーブルの上をすさまじく散らかしたりして帰る家族がいる。食べ物が大量に残されているのを見ると私はいたたまれない気持ちになる。(ただ食いしん坊なだけ。ケチなだけだが…)

予想以上の量だったり、体調、味付けの問題もあって残すことは仕方ない場合もある。

しかしテーブル、テーブルは、片づけていけ。平気で食べかすが落ちていたり、座敷にティッシュが落ちていたりして悲しい。たぶんこの文化に生きる人は、小・中学生の頃ろくにトイレや流しの掃除をしていない!!偏見of偏見であるが、そう思えてならない。

人の気持ちを考えられないとんでもない人たちだと正直思うが、仕方ない、そういう”異文化”の中で生きることによって得た信条は簡単には変わらない。

 

 

自分の生活すべてを相手の文化に合わせる必要はないと思うが、相手の文化を理解しようとする気持ちが大切である。この”理解しようとする気持ち”が異文化理解なのだと思う。

 

友人やパートナーのことが理解できないときは、「この人はガイコクジンだった、そういう考え方もあるのだなぁふむふむ」と思って接しよう。

桃色のふわふわうさぎを追う

久しぶりに学校の話

 

朝、子どもたちとすれ違うたびにあいさつをするが、よく低学年の子に無視をされる。

「おっとっと君、あいさつを無視とは何事か、社会の基本ですぞ」と思いながらも、

”挨拶をすべきは相手は担任の先生、しかも教室に入る時だけ”と思ってたりするから仕方ないかと自分を納得させる。

 

今朝も、おそらく1~2年生と思われる女の子にあいさつをしたが無視をされた。

いつもならまた、「おっとっと君、あいさつは…」とまた心の中でぼやくが、それよりもこの日はその子の様子が気になった。

 

その子、なぜか大きなスケッチブックと筆入れをわきに抱え、そして自分の進行方向をぼんやりと見つめながもらずんずんと歩いて行く。こちらがあいさつをしたときもそうだったが、何か彼女は違う世界を見ているような、意識が違う世界にあるような、そんな目をしていた。

その子の目には、桃色のふわふわしたうさぎか何かが見えていて、それを追いかけていたのかもしれない。そのうさぎの後を追うのに忙しかったのならば、そりゃ義務感から仕方なくあいさつをしてくる作り笑顔おじさんの私のあいさつなど目・耳に入るわけもないのである。ふわふわのうさぎにはかなわない。

 

 

そういえば低学年の担任をしていると、この女の子のような目をしていた子がクラスに何人かいるのだが、学年が上がるほどその目をする子は少なくなるように感じる。

きっとだれしも小さいころは自分だけの想像の世界があって、その世界に生きる時間が一日のなかで長くあったのではないかと思う。私たちはみな等しくこの”目”をもっていたはずだ。しかし大きくなるにつれて現実の世界に生きる時間が長くなり、同時にこの”目”を失っていく。少し寂しいことだと思う。

 

あいさつを返してくれない子がいたら、「おっとっと君、あいさつを無視とは何事か、社会の基本ですぞ。それでもいいがあいさつをしないならこれから先も徹底的に返すな、想像の世界に生きろ、とことん生き続けろ。そして作家になれ。」と思うことにする(笑)

 

 

その目をもつこと、うらやましく思う。

 

いや、でもあいさつは返したまえよ、高学年になったら。

 

明日晴れたら、墓地公園で

タイトル。本のタイトルをつけるときに、著者や編集者は命を懸けていると思う。その本の顔になるから。タイトルだけで本を買うなんてこともあるだろうから、タイトルは大切だ。

 

そんな小説のタイトルばかりを集めてその良さを解説した本を見たい。もうあるかもしれないけれど。

 

個人的にはタイトルだけでは内容が予想できないタイトルが好きです。

 

今回のブログのタイトルは、眠たくて眠たくてたまらない、えらが張ってさらに顔の大きさが2割増しになるではないかというほど歯を食いしばって睡魔に抗う私が適当につけたタイトルである。

素晴らしいタイトルというのはなかなか思いつかない。